熊本、佐賀・城と遺跡めぐりの旅(4)-岩戸山古墳、田原坂

基肄城からの帰り、まだ時間があったので、いくつかの史跡に寄っていくことにしました。
まずは福岡県八女市にある、岩戸山古墳をめざします。


画像
JR西牟田駅から東5キロほどのところに、岩戸山歴史文化交流館いわいの郷があります。


画像
資料館前には、磐井の像がたっています。


画像
館内には、岩戸山古墳にならべられていた石人などがあります。


画像
出土した鉄剣など。


画像
大和朝廷の中央にちかい地域では、古墳に埴輪をならべる文化が発達しましたが、九州のこのあたりは石人・石像文化だったようです。


画像
やがてこの地域も大和朝廷に征服されると、埴輪文化圏になります。


画像
そのころの出土遺物。


画像
資料館のなかを通って反対側へと出ると、岩戸山古墳があります。
大きすぎてちょっと写真にはおさまりません。


画像
“別区”とよばれる地区に、石人(レプリカ)がならんでします。


画像
前方部と後円部のくびれのあたりに、神社がたっています。


岩戸山古墳は全長170メートルにおよぶ前方後円墳です。
古墳は、6世紀初頭に九州北部を支配した筑紫君磐井の墓であると考えられています。

527年、大和朝廷は近江毛野に朝鮮半島南部への出兵を命じます。
しかし新羅と通じた筑紫君磐井が挙兵し、火の国と豊の国を制圧、近江毛野のゆくてをはばみます。
翌528年、磐井は物部麁鹿火に敗北し首を切られます。

のちに磐井の息子、筑紫葛子は大和朝廷に降伏し許されます。
乱のあとも、葛子ら磐井の子孫たちはこの地に根をはり続けるようです。





岩戸山古墳をあとにして、さらに南下。
ふたたび熊本県にはいり、西南戦争の激戦地である、田原坂へ向かいました。


画像
田原坂公園の駐車場の横に、弾痕の家がたっています。
西南戦争時に、薩軍の砲撃で穴だらけになった家を、復元したものだそうです。


画像
田原坂公園には、西南戦争資料館があります。
ちょうど大河ドラマ『西郷どん』放映中であり、タイムリーでしたね。


画像
薩軍の軍装。
洋式の軍装でぴたっとそろえていた政府軍にくらべ、薩軍の服装はばらばらだったようですね。


画像
両軍の食事など。
食事は薩軍もひけをとっていないようです。
戦争末期の、物資が欠乏してきた時期はわかりませんが・・・。


画像
スナイドル銃やエンフィールド銃など、両軍の使用した鉄砲。


画像
政府軍の4ポンド山砲。
開戦当初こそ、薩軍の火力は官軍におとらないものでしたが、やがて物量の差が出て、武器弾薬が不足するようになります。


画像
資料館前からの景色。
政府軍は前面に見える、田原坂と高度がほぼ同じになる丘に大砲をすえて、薩軍陣地を砲撃しました。


明治10(1877)年2月、西郷隆盛を大将とする薩摩軍は鹿児島を進発。
熊本城を囲んだ薩軍でしたがこれを落とせず、おさえの兵をのこしてさらに北へと進みます。

薩軍は植木で乃木希典ひきいる14連隊をやぶるなど、当初戦いを優位に進めますが、やがて兵力差から不利となり、田原坂や吉次峠に長大な陣をきずいて守る、持久戦にはいります。

3月20日には、政府軍の総攻撃を受けてついに田原坂の薩軍陣地が陥落。
薩軍はさらに後方に陣をしきますが、こちらもやぶられて敗走し、約1ヶ月におよんだ一連の戦いは政府軍の勝利におわります。
しかし、田原坂や吉次峠での一連の戦いでは、政府軍も甚大な被害を出したといいます。





画像
“弾痕の家”内部には、赤十字関係の資料が展示されています。
西南戦争が、赤十字の活動のはじまりだったそうです。


西南戦争資料館の見学をおえ、車で熊本市内へともどります。
熊本駅前の営業所でレンタカーを返却し、市電で宿のある水道町までもどりました。
今日もホテルのちかくの繁華街に行きます。

今日行ったのは、きのうの店からもちかい、御縁(ごえん)です。
こちらも個室の居酒屋で、やや高級そうな雰囲気なのでどきどきしました。
値段はそれほどでもなかったです。


画像
まずは生ビールで。


画像
熊本に来たらこれを食べなきゃはじまらない、馬刺し
赤身ですが、口の中でほろほろとほどけるほどやわらかい!
おいしいです。

奥も熊本名物のからし蓮根。


画像
日本酒に移行します。


画像
シメは天草大王のとり茶漬け。
天草大王とは、かつて熊本に存在した大型の地鶏ですが、輸入種が増えたことなどにより、昭和初期に絶滅してしまったのだとか。
天草大王の復活をのぞむ声は根強く、さいきん(どういう方法でかはわかりませんが)復活したとのこと。

こりこりと歯ごたえがあり、地鶏らしいヘルシーさを感じさせる肉は、本当においしいです。


画像
“御縁”の外観です。
ビルの2階にあります。


明日は最終日、八代城をおとずれます。




筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) [ 柳沢一男 ]
楽天ブックス
シリーズ「遺跡を学ぶ」 柳沢一男 新泉社チクシ ノ キミ イワイ ト イワイ ノ ラン イワトヤマ


楽天市場







この記事へのコメント

2018年12月15日 00:13
こんばんは。

岩戸山古墳ですか。
楽しそうですね。
うちの近くにも今城塚古墳があります。
それと継体天皇陵と。
田原坂!
めっちゃ行きたい!
大河ドラマもいよいよクライマックですね。
家ニスタ
2018年12月15日 15:10
トトパパさん、こんにちは。
継体天皇といったら、まさに磐井の乱を鎮圧した人じゃないですか!
両方見たら面白そうですね。
今城塚古墳にも、被葬者継体天皇説がありますよね。
『西郷どん』まさに佳境に入ってますね。
ちょうどいいときに見てこられました。
いつもコメントありがとうございます。
2018年12月15日 17:09
熊本・佐賀・熊本と旅を楽しまれていますね。私の行動範囲なので興味をもって読ませていただいています。
2018年12月15日 22:33
岩戸山古墳、懐かしいですね。
勤めて最初の年だったと思いますが、
いつもは非公開の熊本の装飾古墳や、
福岡の古代史遺跡を巡るツアーに参加して、
この岩戸山古墳も見学しました。
墳丘の大きさ、石人のレプリカなど、
あの時の印象が蘇ります。大和と筑紫の
支配権争いなど、古代の歴史を
遺跡から想像するのは楽しいものですね。
家ニスタ
2018年12月17日 01:37
torさん、こんばんは。
熊本→佐賀→福岡→熊本とまわってきました。
torさんの行動範囲なのですね。
拙い記事で失礼しました。
いつもコメントありがとうございます。
家ニスタ
2018年12月17日 01:41
yasuhikoさん、こんばんは。
熊本の装飾古墳をまわられるとは、貴重な体験をなさいましたね。
地震で熊本の装飾古墳もだいぶ壊れてしまったようなので、もうその頃のような姿は見られないかもしれません。
大和と筑紫の争い・・・もし磐井が勝っていたら、今の日本とは違った姿になっていたのでしょうか。
いつもコメントありがとうございます。
2018年12月18日 12:09
岩戸山古墳は昔から興味を持っている古墳です。ちょうど今回書いていた継体天皇の時代ですが、枚方に20年もいて、大和朝廷の本拠に継体天皇が大和に入部したのが乱の前年で、王朝が入れ替わったと見られます。それに対しての反乱なので実は正当な後継は磐井じゃなかったのかなどと想像を膨らませています。そうなれば前河内王朝特有の巨大な古墳にも納得がいくんですが。。。
家ニスタ
2018年12月19日 02:11
つとつとさん、こんばんは。
僕も継体天皇のときに王朝の交代があったと考えています。
正当な後継が実は磐井だった、という発想は面白いですね。
もしそうだったら、と思うとわくわくします。
いつもコメントありがとうございます。
2018年12月21日 23:53
石人、石像文化ですか
場所によって違うんですね

田原坂。。。そうやったんですね
大河ドラマも見てないし。。。
なるほど~でした(笑)

馬刺しにからし蓮根、とり茶漬け、どれも美味しそうです❤
家ニスタ
2018年12月22日 21:37
とまるさん、こんばんは。
九州北部のこのあたりは、埴輪ではなく石人文化だったみたいです。
大河ドラマご覧になってなかったんですか。
田原坂の戦いの話は有名ですが、僕も現地で見たのははじめてです。
からし蓮根も馬刺しもおいしかったです。
いつもコメントありがとうございます。

この記事へのトラックバック