福島県お城めぐり(2)-会津若松城、久川城、大内宿
〈2015年7月20日(月)(その1)〉
きのうゴルド君は飲みすぎで少々体をこわしてしまいましたが、今日はだいじょうぶなようです。
8時すぎに宿を出て、すぐ近くにあるランドマーク、会津若松城をめざします。
別名鶴ヶ城とよばれる、この城に来るのは3回めです。
すぐ目にとびこんでくる、優美な天守!
ただし鶴ヶ城天守は明治期にとりこわされており、現在の天守は昭和40年に再建されたものです。
いぜんこのBLOGでもお伝えしたとおり、かつては青灰色の瓦がふかれていましたが、幕末に赤瓦がふかれていたという記録があったようで、近年その色にリニューアルされています。
赤瓦の天守は、全国でもちょっとめずらしいですねー。
天守ふきんには、幕末の武士のかっこうをした人がいました。
天守台の石垣。
天守からの景色です。
とおくの山には、雲がかかっています。
近年復元された、南走り長屋の内部。
この長屋は天守につながっています。
会津若松城の前身は、芦名氏が居城としていた黒川城でした。
天正17(1589)年の摺上原の戦いで芦名氏をほろぼした伊達政宗は黒川城に入りますが、秀吉の奥州仕置きにより会津を召し上げられ、会津には蒲生氏郷が入ります。
氏郷の死後、子の秀行があとをつぎますが、秀吉は慶長3(1598)年に秀行を宇都宮に移封、あとには120万石で上杉景勝が入ります。
しかしその景勝も、関ヶ原と前後した奥羽の戦いで家康に敵対したため、米沢30万石に押し込められます。
寛永20(1643)年に保科正之が会津に入封すると、以後松平氏の治世がつづきますが、幕末には薩長と敵対し賊軍の汚名を着せられてしまいます。
このときに白虎隊の悲劇をうみだすのは、よく知られているところ。
ここでも、百名城スタンプを押しました。
会津若松城に来るのは3回めですが、まだスタンプは押してませんでした。
もいっちょ、鶴ヶ城天守。
再建成った表門(鉄(くろがね)門)です。
続いて国道121号をひたすらに南下。
会津田島をすぎ、国道298号を西へ。
きのうは行けなかった、久川城をめざします。
このようにうつくしい田園風景の中を進んでいきます。
運転中の僕にかわり、ゴルド君にシャッターを押してもらいました。
ゴルド君、ナイス写真!
会津若松から1時間半ほど、久川城跡に到着。
久川城入口です。
入口には、鳥居がたっています。
こーんな石段をのぼっていきます。
15分ほどののぼりで、山上のエリアに到着。
写真は枡形門の跡です。
山上はかなり広い平坦地になっており、本丸、二の丸、三の丸が、ほとんど高低差なく連なっています。
ちょうど、山の上に平城をもってきたようなつくりです。
こうした形式の城には、山梨の新府城などがありますね。
こんなみごとな竪堀が見られます。
堅固なつくりの城です。
山上からの景色です。
ゆたかな田園風景がひろがっています。
なんとも風光明媚。まさにユートピアです。
これで雪さえ降らなきゃ・・。
本丸です。けっこうな広さがあります。
ここでも、やっぱりアジサイが満開に。
久川城の周辺は、藤原一族の河原田氏の所領でした。
摺上原の戦いで勝った伊達政宗が黒川に入城すると、河原田氏はこれに対抗するために久川城をきずいたといわれます。
政宗からのたびたびの攻撃にも落ちなかった久川城ですが、秀吉の奥州仕置きのときに、河原田氏の所領も没収となってしまいます。
その後蒲生、上杉と領主がかわるたびに城代が置かれますが、慶長15(1610)年ごろには廃城となったようです。
現在も久川城址に立つと、政宗のたびたびの攻撃にも落城しなかったという堅固さが、納得できます。
本丸近くには、久川城址の碑がたっています。
久川城入口ふきんの風景。
うーん、美しい。
さて、古い町並み評論家でもある僕。
福島県にある大内宿には、いつか行ってみたいと思っていましたが、なかなか機会がありませんでした。
久川城からそれほど遠くないようなので、この機会に行ってくることにしました。
久川城から1時間ほど。
臨時の無料駐車場に、車をとめます。
大内宿入口のマリーゴールド(?)。
これだけみごとに咲かせるには、さぞ手入れがたいへんだったことでしょう。
やがて会津西街道の宿場町に入っていきます。
江戸時代にタイムスリップしたかのよう!
街道の両側に、古い家がたちならびます。
布細工などのおみやげを売る店もあります。
こちらも布細工のダイコン!
高台からは、大内宿の全体が見わたせます。
“古い町並み評論家”の僕としても、この町並みには高いポイントをつけざるをえません。
いやー、来てヨカッタ!
難点といえば、連休最終日でめちゃくちゃ混んでたことでしょうか。
(その2)に続きます。
きのうゴルド君は飲みすぎで少々体をこわしてしまいましたが、今日はだいじょうぶなようです。
8時すぎに宿を出て、すぐ近くにあるランドマーク、会津若松城をめざします。
別名鶴ヶ城とよばれる、この城に来るのは3回めです。
すぐ目にとびこんでくる、優美な天守!
ただし鶴ヶ城天守は明治期にとりこわされており、現在の天守は昭和40年に再建されたものです。
いぜんこのBLOGでもお伝えしたとおり、かつては青灰色の瓦がふかれていましたが、幕末に赤瓦がふかれていたという記録があったようで、近年その色にリニューアルされています。
赤瓦の天守は、全国でもちょっとめずらしいですねー。
天守ふきんには、幕末の武士のかっこうをした人がいました。
天守台の石垣。
天守からの景色です。
とおくの山には、雲がかかっています。
近年復元された、南走り長屋の内部。
この長屋は天守につながっています。
会津若松城の前身は、芦名氏が居城としていた黒川城でした。
天正17(1589)年の摺上原の戦いで芦名氏をほろぼした伊達政宗は黒川城に入りますが、秀吉の奥州仕置きにより会津を召し上げられ、会津には蒲生氏郷が入ります。
氏郷の死後、子の秀行があとをつぎますが、秀吉は慶長3(1598)年に秀行を宇都宮に移封、あとには120万石で上杉景勝が入ります。
しかしその景勝も、関ヶ原と前後した奥羽の戦いで家康に敵対したため、米沢30万石に押し込められます。
寛永20(1643)年に保科正之が会津に入封すると、以後松平氏の治世がつづきますが、幕末には薩長と敵対し賊軍の汚名を着せられてしまいます。
このときに白虎隊の悲劇をうみだすのは、よく知られているところ。
ここでも、百名城スタンプを押しました。
会津若松城に来るのは3回めですが、まだスタンプは押してませんでした。
もいっちょ、鶴ヶ城天守。
再建成った表門(鉄(くろがね)門)です。
続いて国道121号をひたすらに南下。
会津田島をすぎ、国道298号を西へ。
きのうは行けなかった、久川城をめざします。
このようにうつくしい田園風景の中を進んでいきます。
運転中の僕にかわり、ゴルド君にシャッターを押してもらいました。
ゴルド君、ナイス写真!
会津若松から1時間半ほど、久川城跡に到着。
久川城入口です。
入口には、鳥居がたっています。
こーんな石段をのぼっていきます。
15分ほどののぼりで、山上のエリアに到着。
写真は枡形門の跡です。
山上はかなり広い平坦地になっており、本丸、二の丸、三の丸が、ほとんど高低差なく連なっています。
ちょうど、山の上に平城をもってきたようなつくりです。
こうした形式の城には、山梨の新府城などがありますね。
こんなみごとな竪堀が見られます。
堅固なつくりの城です。
山上からの景色です。
ゆたかな田園風景がひろがっています。
なんとも風光明媚。まさにユートピアです。
これで雪さえ降らなきゃ・・。
本丸です。けっこうな広さがあります。
ここでも、やっぱりアジサイが満開に。
久川城の周辺は、藤原一族の河原田氏の所領でした。
摺上原の戦いで勝った伊達政宗が黒川に入城すると、河原田氏はこれに対抗するために久川城をきずいたといわれます。
政宗からのたびたびの攻撃にも落ちなかった久川城ですが、秀吉の奥州仕置きのときに、河原田氏の所領も没収となってしまいます。
その後蒲生、上杉と領主がかわるたびに城代が置かれますが、慶長15(1610)年ごろには廃城となったようです。
現在も久川城址に立つと、政宗のたびたびの攻撃にも落城しなかったという堅固さが、納得できます。
本丸近くには、久川城址の碑がたっています。
久川城入口ふきんの風景。
うーん、美しい。
さて、古い町並み評論家でもある僕。
福島県にある大内宿には、いつか行ってみたいと思っていましたが、なかなか機会がありませんでした。
久川城からそれほど遠くないようなので、この機会に行ってくることにしました。
久川城から1時間ほど。
臨時の無料駐車場に、車をとめます。
大内宿入口のマリーゴールド(?)。
これだけみごとに咲かせるには、さぞ手入れがたいへんだったことでしょう。
やがて会津西街道の宿場町に入っていきます。
江戸時代にタイムスリップしたかのよう!
街道の両側に、古い家がたちならびます。
布細工などのおみやげを売る店もあります。
こちらも布細工のダイコン!
高台からは、大内宿の全体が見わたせます。
“古い町並み評論家”の僕としても、この町並みには高いポイントをつけざるをえません。
いやー、来てヨカッタ!
難点といえば、連休最終日でめちゃくちゃ混んでたことでしょうか。
(その2)に続きます。





























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